2026年9月13日(日) 9時
論文自分たちも『悪い側』かもしれない、それでも書く意味
大学や組織に属しながら執筆する研究者たちは、自分たちの言葉が誰かを傷つけることに無自覚ではいられません。この論文は『自分たちも問題の一部』だと認めたうえで、それでもなお語り継ぐことの意味を問い直します。
この研究のポイント
- 1.
何を調べたか
大学や組織に属する者は、その制度の『加害性』から逃れられないという現実を直視する必要があることを指摘
- 2.
見えてきたこと
自分たちが『正しい側』だと信じて書き続けることの危険性を問い、むしろ葛藤を引き受ける道を示唆
- 3.
私たちにとっての意味
完全な潔白や正当化を求めるのではなく、内部矛盾を抱えたまま責任ある言葉を紡ぐことの価値
著者Omer Aijazi
AIが気になってること
?『植民地支配の遺産の上に立っている』って、大学のどの部分がそれに当たるの?
大学が植民地支配の遺産と結びついている部分は、いくつか層があります。最も直接的なのは、19世紀から20世紀初頭にかけて、欧米の大学が植民地で収集した標本やテキスト、知識体系そのものです。いまでも博物館や図書館に眠る資料の多くは、かつての支配地域から「学問の名目で」持ち出されたもの。その蓄積の上に、現在の研究が成り立っているわけです。
ただもっと根深いのは、知識の体系そのもの。「何が重要な学問か」「誰の知識を価値あるものとして扱うか」という基準が、実は欧米中心に設計されたままだということ。非欧米の地域や民族の知識体系は、いまでも周辺的な扱いを受けることが多い。大学という制度自体が、そうした不均等な秩序の上に立てられている。
つまり物理的な遺産だけじゃなく、学問の「ものの考え方」の枠組み自体が、植民地主義的な時代の産物をひきずっているということです。だからこそ、その中で研究する人たちは、その枠組みの恩恵を受けながらも、同時に問い直さずにはいられないのかもしれません。
『植民地支配の遺産の上に立っている』って、大学のどの部分がそれに当たるの?
大学が植民地支配の遺産と結びついている部分は、いくつか層があります。最も直接的なのは、19世紀から20世紀初頭にかけて、欧米の大学が植民地で収集した標本やテキスト、知識体系そのものです。いまでも博物館や図書館に眠る資料の多くは、かつての支配地域から「学問の名目で」持ち出されたもの。その蓄積の上に、現在の研究が成り立っているわけです。 ただもっと根深いのは、知識の体系そのもの。「何が重要な学問か」「誰の知識を価値あるものとして扱うか」という基準が、実は欧米中心に設計されたままだということ。非欧米の地域や民族の知識体系は、いまでも周辺的な扱いを受けることが多い。大学という制度自体が、そうした不均等な秩序の上に立てられている。 つまり物理的な遺産だけじゃなく、学問の「ものの考え方」の枠組み自体が、植民地主義的な時代の産物をひきずっているということです。だからこそ、その中で研究する人たちは、その枠組みの恩恵を受けながらも、同時に問い直さずにはいられないのかもしれません。
AIAIからの回答
大学が植民地支配の遺産と結びついている部分は、いくつか層があります。最も直接的なのは、19世紀から20世紀初頭にかけて、欧米の大学が植民地で収集した標本やテキスト、知識体系そのものです。いまでも博物館や図書館に眠る資料の多くは、かつての支配地域から「学問の名目で」持ち出されたもの。その蓄積の上に、現在の研究が成り立っているわけです。
ただもっと根深いのは、知識の体系そのもの。「何が重要な学問か」「誰の知識を価値あるものとして扱うか」という基準が、実は欧米中心に設計されたままだということ。非欧米の地域や民族の知識体系は、いまでも周辺的な扱いを受けることが多い。大学という制度自体が、そうした不均等な秩序の上に立てられている。
つまり物理的な遺産だけじゃなく、学問の「ものの考え方」の枠組み自体が、植民地主義的な時代の産物をひきずっているということです。だからこそ、その中で研究する人たちは、その枠組みの恩恵を受けながらも、同時に問い直さずにはいられないのかもしれません。
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?SNSで気軽に意見を発信してる自分たちも、知らないうちに誰かを傷つけてる側にいるってこと?
その通り、という単純な話ではなくて、むしろ「知らないうちに」という部分が厄介なんですよね。
SNS で意見を発信するあなたも、大学の研究者も、新聞社も、誰もが何らかの既存システムの中に位置してる。そのシステムが過去からの積み重ねで、必ずどこかで誰かを排除したり優遇したりしてる。その恩恵を受けて生きてるということです。
だから「私は悪くない」と言い張ることもできるし、「こんなシステムに関わりたくない」と降りることもできる。けれど記事が指摘するのは、そのどちらでもない道。自分たちも問題の一部だと認めつつ、それでも言葉を発する選択肢があるということ。
重要なのは、その認識があるかないかで、同じ発言の質が変わるという点かもしれません。無自覚に権力を行使するのと、自分たちの限界や矛盾を抱えながら責任を引き受けるのでは、言葉が持つ重さが違う。完璧さを目指さず、葛藤を丸ごと引き受ける誠実さが問われているのではないかと言えそうです。
SNSで気軽に意見を発信してる自分たちも、知らないうちに誰かを傷つけてる側にいるってこと?
その通り、という単純な話ではなくて、むしろ「知らないうちに」という部分が厄介なんですよね。 SNS で意見を発信するあなたも、大学の研究者も、新聞社も、誰もが何らかの既存システムの中に位置してる。そのシステムが過去からの積み重ねで、必ずどこかで誰かを排除したり優遇したりしてる。その恩恵を受けて生きてるということです。 だから「私は悪くない」と言い張ることもできるし、「こんなシステムに関わりたくない」と降りることもできる。けれど記事が指摘するのは、そのどちらでもない道。自分たちも問題の一部だと認めつつ、それでも言葉を発する選択肢があるということ。 重要なのは、その認識があるかないかで、同じ発言の質が変わるという点かもしれません。無自覚に権力を行使するのと、自分たちの限界や矛盾を抱えながら責任を引き受けるのでは、言葉が持つ重さが違う。完璧さを目指さず、葛藤を丸ごと引き受ける誠実さが問われているのではないかと言えそうです。
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その通り、という単純な話ではなくて、むしろ「知らないうちに」という部分が厄介なんですよね。
SNS で意見を発信するあなたも、大学の研究者も、新聞社も、誰もが何らかの既存システムの中に位置してる。そのシステムが過去からの積み重ねで、必ずどこかで誰かを排除したり優遇したりしてる。その恩恵を受けて生きてるということです。
だから「私は悪くない」と言い張ることもできるし、「こんなシステムに関わりたくない」と降りることもできる。けれど記事が指摘するのは、そのどちらでもない道。自分たちも問題の一部だと認めつつ、それでも言葉を発する選択肢があるということ。
重要なのは、その認識があるかないかで、同じ発言の質が変わるという点かもしれません。無自覚に権力を行使するのと、自分たちの限界や矛盾を抱えながら責任を引き受けるのでは、言葉が持つ重さが違う。完璧さを目指さず、葛藤を丸ごと引き受ける誠実さが問われているのではないかと言えそうです。
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?研究者たちが『自分たちも問題の一部』だと認めるようになったのは、最近になってからなの?
研究者が自分たちの立場の矛盾に気づくこと自体は、ずっと前からあったんですよね。ただ「それを明言して、なおかつ執筆を続ける」という形での問い直しが、ここ10年くらいで顕在化してきた感があります。
背景には、植民地主義批評やフェミニズム研究など、既存の知識体系そのものを問い直す学問が力を持ってきたことがあるはずです。それが学問内部の「常識」になってくると、もはや「私たちは客観的です」という建前では論文が書けなくなる。むしろ「自分たちのポジショナリティ(立場)を自覚したうえで語る」ことが学問的な誠実さになっていく転換が起きた。
記事で指摘されているのは、そうした転換の中で、研究者たちが「逃げ場のない問い」に直面している状況なのだと言えそうです。潔白を装うこともできないし、完全に身を引くこともできない。その緊張感の中でしか、本当の批判的思考は生まれないのではないか、という視点があるのかもしれません。
研究者たちが『自分たちも問題の一部』だと認めるようになったのは、最近になってからなの?
研究者が自分たちの立場の矛盾に気づくこと自体は、ずっと前からあったんですよね。ただ「それを明言して、なおかつ執筆を続ける」という形での問い直しが、ここ10年くらいで顕在化してきた感があります。 背景には、植民地主義批評やフェミニズム研究など、既存の知識体系そのものを問い直す学問が力を持ってきたことがあるはずです。それが学問内部の「常識」になってくると、もはや「私たちは客観的です」という建前では論文が書けなくなる。むしろ「自分たちのポジショナリティ(立場)を自覚したうえで語る」ことが学問的な誠実さになっていく転換が起きた。 記事で指摘されているのは、そうした転換の中で、研究者たちが「逃げ場のない問い」に直面している状況なのだと言えそうです。潔白を装うこともできないし、完全に身を引くこともできない。その緊張感の中でしか、本当の批判的思考は生まれないのではないか、という視点があるのかもしれません。
AIAIからの回答
研究者が自分たちの立場の矛盾に気づくこと自体は、ずっと前からあったんですよね。ただ「それを明言して、なおかつ執筆を続ける」という形での問い直しが、ここ10年くらいで顕在化してきた感があります。
背景には、植民地主義批評やフェミニズム研究など、既存の知識体系そのものを問い直す学問が力を持ってきたことがあるはずです。それが学問内部の「常識」になってくると、もはや「私たちは客観的です」という建前では論文が書けなくなる。むしろ「自分たちのポジショナリティ(立場)を自覚したうえで語る」ことが学問的な誠実さになっていく転換が起きた。
記事で指摘されているのは、そうした転換の中で、研究者たちが「逃げ場のない問い」に直面している状況なのだと言えそうです。潔白を装うこともできないし、完全に身を引くこともできない。その緊張感の中でしか、本当の批判的思考は生まれないのではないか、という視点があるのかもしれません。
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?結局、『完全に正しい立場から発言する』ってのは、どんな組織に属してる限り不可能だってことなのかな?
記事を読むと、そもそも「完全に正しい立場」という考え方そのものが、幻想なのかもしれません。
大学に属する研究者は、同時に植民地支配の遺産の上に立つ組織の一員です。新聞社の記者も、既存メディアの権力構造に組み込まれています。SNS で発信する私たちも、データを提供するプラットフォームの利益に加担している。どこかに一歩を踏み出すたびに、何らかの「システムの恩恵」と「その犠牲」に触れてしまうのが、現代社会の構造なわけです。
だから問題は、組織から逃げることじゃなくて、その矛盾を認識したうえで、それでも言葉を紡ぐかどうかという選択にあるのかもしれません。「自分たちも悪い側の一部」と認めることで、初めて発言に責任が生まれる。完璧さを求めるのではなく、その矛盾と向き合い続ける誠実さこそが、問われているのだと言えそうです。
結局、『完全に正しい立場から発言する』ってのは、どんな組織に属してる限り不可能だってことなのかな?
記事を読むと、そもそも「完全に正しい立場」という考え方そのものが、幻想なのかもしれません。 大学に属する研究者は、同時に植民地支配の遺産の上に立つ組織の一員です。新聞社の記者も、既存メディアの権力構造に組み込まれています。SNS で発信する私たちも、データを提供するプラットフォームの利益に加担している。どこかに一歩を踏み出すたびに、何らかの「システムの恩恵」と「その犠牲」に触れてしまうのが、現代社会の構造なわけです。 だから問題は、組織から逃げることじゃなくて、その矛盾を認識したうえで、それでも言葉を紡ぐかどうかという選択にあるのかもしれません。「自分たちも悪い側の一部」と認めることで、初めて発言に責任が生まれる。完璧さを求めるのではなく、その矛盾と向き合い続ける誠実さこそが、問われているのだと言えそうです。
AIAIからの回答
記事を読むと、そもそも「完全に正しい立場」という考え方そのものが、幻想なのかもしれません。
大学に属する研究者は、同時に植民地支配の遺産の上に立つ組織の一員です。新聞社の記者も、既存メディアの権力構造に組み込まれています。SNS で発信する私たちも、データを提供するプラットフォームの利益に加担している。どこかに一歩を踏み出すたびに、何らかの「システムの恩恵」と「その犠牲」に触れてしまうのが、現代社会の構造なわけです。
だから問題は、組織から逃げることじゃなくて、その矛盾を認識したうえで、それでも言葉を紡ぐかどうかという選択にあるのかもしれません。「自分たちも悪い側の一部」と認めることで、初めて発言に責任が生まれる。完璧さを求めるのではなく、その矛盾と向き合い続ける誠実さこそが、問われているのだと言えそうです。
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?『自分たちも悪い側』だと認めたら、かえって責任回避の言い訳になる危険性はないの?
鋭い指摘ですね。確かに「自分たちも問題の一部です」という前置きは、使い方次第で責任逃れの免罪符になりかねません。
ただ記事が提示しているのは、そういう「認めて終わり」の逃げ道ではなく、むしろ逆です。自分たちの無自覚な加担を認めたうえで、それでも「火の中から」言葉を紡ぐ——つまり、その矛盾を抱えたまま発言し続けることの困難さと責任を引き受けるということなんでしょう。
言い換えれば、「僕たちは完全ではありません、だから何を言ってもいい」ではなく、「僕たちは問題の一部です、だからこそ何を言うかは慎重に、そして何を言わないかも問われている」という立ち位置。自分たちの言葉がもたらす傷を、むしろより一層意識することになります。
その意味では、不完全さを前提にすることは、逃げ道を広げるのではなく、むしろ論拠の自明性を失わせて、一つひとつの発言をより厳しく検証する手がかりになる可能性があるのかもしれません。
『自分たちも悪い側』だと認めたら、かえって責任回避の言い訳になる危険性はないの?
鋭い指摘ですね。確かに「自分たちも問題の一部です」という前置きは、使い方次第で責任逃れの免罪符になりかねません。 ただ記事が提示しているのは、そういう「認めて終わり」の逃げ道ではなく、むしろ逆です。自分たちの無自覚な加担を認めたうえで、それでも「火の中から」言葉を紡ぐ——つまり、その矛盾を抱えたまま発言し続けることの困難さと責任を引き受けるということなんでしょう。 言い換えれば、「僕たちは完全ではありません、だから何を言ってもいい」ではなく、「僕たちは問題の一部です、だからこそ何を言うかは慎重に、そして何を言わないかも問われている」という立ち位置。自分たちの言葉がもたらす傷を、むしろより一層意識することになります。 その意味では、不完全さを前提にすることは、逃げ道を広げるのではなく、むしろ論拠の自明性を失わせて、一つひとつの発言をより厳しく検証する手がかりになる可能性があるのかもしれません。
AIAIからの回答
鋭い指摘ですね。確かに「自分たちも問題の一部です」という前置きは、使い方次第で責任逃れの免罪符になりかねません。
ただ記事が提示しているのは、そういう「認めて終わり」の逃げ道ではなく、むしろ逆です。自分たちの無自覚な加担を認めたうえで、それでも「火の中から」言葉を紡ぐ——つまり、その矛盾を抱えたまま発言し続けることの困難さと責任を引き受けるということなんでしょう。
言い換えれば、「僕たちは完全ではありません、だから何を言ってもいい」ではなく、「僕たちは問題の一部です、だからこそ何を言うかは慎重に、そして何を言わないかも問われている」という立ち位置。自分たちの言葉がもたらす傷を、むしろより一層意識することになります。
その意味では、不完全さを前提にすることは、逃げ道を広げるのではなく、むしろ論拠の自明性を失わせて、一つひとつの発言をより厳しく検証する手がかりになる可能性があるのかもしれません。
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