
2026年4月24日(金) 8時
「タモリは面白くない」と言ったらボコボコに。ヒカルへの猛バッシングに透けて見える“日本人の危うさ”(女子SPA!)
タモリが偉大であることと、タモリを批判することは両立してはいけないのかーー。興味深い論点を与えてくれる出来事がありました。 それはYouTuberのヒカルが4月20日に公開した動画での一件。カ
記事全文を読むAIが気になってること
?『信仰の対象になってる』って、具体的にはどういう状態のこと?タモリ自身がそうなりたかったわけじゃないのに。
「信仰の対象」というのは、実はタモリ本人の意図とは関係なく、視聴者側の心理が勝手に構築してる状態なんですよね。
記事でも書かれてますが、タモリが何か言えば「さすがタモさん」と無条件に肯定される。その発言が正しいかどうかを吟味するんじゃなく、タモリが言ったこと自体に権威を感じて従う。「新しい戦前」という発言ひとつで、それを根拠に政治を判断する人まで出てくる。これって、思考の主体が視聴者にあるんじゃなく、タモリに預けられてる状態です。
要するに、長年の積み重ねで「この人は絶対に正しい、深い」という共同幻想ができあがっちゃった。その幻想に異を唱えると、個人の感覚の違いじゃなく「神聖なものへの冒涜」と受け取られてしまう。タモリ自身は何もしてないのに、視聴者の側が勝手に崇高さを投影し続けてるわけです。愛情の行き着く先が、盲信になってしまう。そこが危ういと記者は言ってるのかもしれません。
『信仰の対象になってる』って、具体的にはどういう状態のこと?タモリ自身がそうなりたかったわけじゃないのに。
「信仰の対象」というのは、実はタモリ本人の意図とは関係なく、視聴者側の心理が勝手に構築してる状態なんですよね。 記事でも書かれてますが、タモリが何か言えば「さすがタモさん」と無条件に肯定される。その発言が正しいかどうかを吟味するんじゃなく、タモリが言ったこと自体に権威を感じて従う。「新しい戦前」という発言ひとつで、それを根拠に政治を判断する人まで出てくる。これって、思考の主体が視聴者にあるんじゃなく、タモリに預けられてる状態です。 要するに、長年の積み重ねで「この人は絶対に正しい、深い」という共同幻想ができあがっちゃった。その幻想に異を唱えると、個人の感覚の違いじゃなく「神聖なものへの冒涜」と受け取られてしまう。タモリ自身は何もしてないのに、視聴者の側が勝手に崇高さを投影し続けてるわけです。愛情の行き着く先が、盲信になってしまう。そこが危ういと記者は言ってるのかもしれません。
AIAIからの回答
「信仰の対象」というのは、実はタモリ本人の意図とは関係なく、視聴者側の心理が勝手に構築してる状態なんですよね。
記事でも書かれてますが、タモリが何か言えば「さすがタモさん」と無条件に肯定される。その発言が正しいかどうかを吟味するんじゃなく、タモリが言ったこと自体に権威を感じて従う。「新しい戦前」という発言ひとつで、それを根拠に政治を判断する人まで出てくる。これって、思考の主体が視聴者にあるんじゃなく、タモリに預けられてる状態です。
要するに、長年の積み重ねで「この人は絶対に正しい、深い」という共同幻想ができあがっちゃった。その幻想に異を唱えると、個人の感覚の違いじゃなく「神聖なものへの冒涜」と受け取られてしまう。タモリ自身は何もしてないのに、視聴者の側が勝手に崇高さを投影し続けてるわけです。愛情の行き着く先が、盲信になってしまう。そこが危ういと記者は言ってるのかもしれません。
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?自分が好きな有名人を批判されたときって、なぜあんなに反射的に怒ってしまうんだろう?
好きな有名人への批判に反射的に怒るのは、その批判が「相手の趣味や判断力への否定」に聞こえるからだと思います。
タモリを「つまらない」と言われて激怒する人たちは、実は「タモリを素晴らしいと思う自分たちの感性が否定されている」と感じているのかもしれません。有名人は好きな人の外部化された判断基準みたいな存在で、その人を貶されることは、自分たちの美的センスや知性まで貶されているように映ってしまう。
記事が指摘する「信仰化」とも関連していて、タモリが単なる「好きな芸人」ではなく「正しさの象徴」になってしまうと、異なる意見は単なる意見ではなく「冒涜」に変わってしまうんです。相手を評価する基準そのものを否定されると、自分たちの世界観そのものが揺らぐような恐怖心が生まれる。だから反射的に、激しく、圧倒的に反撃しようとするのかもしれません。怒りの強さは、その人にとってその有名人がどれだけ「自分の判断の拠り所」になっているかの度合いを測るようなものと言えそうです。
自分が好きな有名人を批判されたときって、なぜあんなに反射的に怒ってしまうんだろう?
好きな有名人への批判に反射的に怒るのは、その批判が「相手の趣味や判断力への否定」に聞こえるからだと思います。 タモリを「つまらない」と言われて激怒する人たちは、実は「タモリを素晴らしいと思う自分たちの感性が否定されている」と感じているのかもしれません。有名人は好きな人の外部化された判断基準みたいな存在で、その人を貶されることは、自分たちの美的センスや知性まで貶されているように映ってしまう。 記事が指摘する「信仰化」とも関連していて、タモリが単なる「好きな芸人」ではなく「正しさの象徴」になってしまうと、異なる意見は単なる意見ではなく「冒涜」に変わってしまうんです。相手を評価する基準そのものを否定されると、自分たちの世界観そのものが揺らぐような恐怖心が生まれる。だから反射的に、激しく、圧倒的に反撃しようとするのかもしれません。怒りの強さは、その人にとってその有名人がどれだけ「自分の判断の拠り所」になっているかの度合いを測るようなものと言えそうです。
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好きな有名人への批判に反射的に怒るのは、その批判が「相手の趣味や判断力への否定」に聞こえるからだと思います。
タモリを「つまらない」と言われて激怒する人たちは、実は「タモリを素晴らしいと思う自分たちの感性が否定されている」と感じているのかもしれません。有名人は好きな人の外部化された判断基準みたいな存在で、その人を貶されることは、自分たちの美的センスや知性まで貶されているように映ってしまう。
記事が指摘する「信仰化」とも関連していて、タモリが単なる「好きな芸人」ではなく「正しさの象徴」になってしまうと、異なる意見は単なる意見ではなく「冒涜」に変わってしまうんです。相手を評価する基準そのものを否定されると、自分たちの世界観そのものが揺らぐような恐怖心が生まれる。だから反射的に、激しく、圧倒的に反撃しようとするのかもしれません。怒りの強さは、その人にとってその有名人がどれだけ「自分の判断の拠り所」になっているかの度合いを測るようなものと言えそうです。
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?タモリってずっと『愛されてる』存在だったのか、それとも最近特に『神聖視』されるようになったのか、どっちなの?
タモリの立場は、ずっと安定していたわけじゃなくて、時代とともに変わってきたんだと思います。
1980年代の「笑っていいとも!」の頃は、むしろ若い世代からは距離があった。深夜番組の人気者で、サブカルの賞味期限が短い時代でもあります。ただ、テレビが強かった時期に毎日全国放送で30年近く続けたことで、知名度と信頼感は積み重なっていった。
転機は2014年の番組終了以降に見えます。毎日の放送から解放されたことで、発言の一つひとつが重くなった。逆説的ですが、テレビから少し距離をおくことで、むしろ「知的な発言をする人」としての価値が高まった側面があります。最近は政治的な発言や人生論をSNSで見かける機会も増えました。
つまり、愛されてはいたけど、最近特に「常に正しい」「疑問の余地がない」という神聖視に傾いている。時間とともに人気は変わるのに、タモリだけは変わらない完璧な存在という扱いが強まっているのかもしれません。
タモリってずっと『愛されてる』存在だったのか、それとも最近特に『神聖視』されるようになったのか、どっちなの?
タモリの立場は、ずっと安定していたわけじゃなくて、時代とともに変わってきたんだと思います。 1980年代の「笑っていいとも!」の頃は、むしろ若い世代からは距離があった。深夜番組の人気者で、サブカルの賞味期限が短い時代でもあります。ただ、テレビが強かった時期に毎日全国放送で30年近く続けたことで、知名度と信頼感は積み重なっていった。 転機は2014年の番組終了以降に見えます。毎日の放送から解放されたことで、発言の一つひとつが重くなった。逆説的ですが、テレビから少し距離をおくことで、むしろ「知的な発言をする人」としての価値が高まった側面があります。最近は政治的な発言や人生論をSNSで見かける機会も増えました。 つまり、愛されてはいたけど、最近特に「常に正しい」「疑問の余地がない」という神聖視に傾いている。時間とともに人気は変わるのに、タモリだけは変わらない完璧な存在という扱いが強まっているのかもしれません。
AIAIからの回答
タモリの立場は、ずっと安定していたわけじゃなくて、時代とともに変わってきたんだと思います。
1980年代の「笑っていいとも!」の頃は、むしろ若い世代からは距離があった。深夜番組の人気者で、サブカルの賞味期限が短い時代でもあります。ただ、テレビが強かった時期に毎日全国放送で30年近く続けたことで、知名度と信頼感は積み重なっていった。
転機は2014年の番組終了以降に見えます。毎日の放送から解放されたことで、発言の一つひとつが重くなった。逆説的ですが、テレビから少し距離をおくことで、むしろ「知的な発言をする人」としての価値が高まった側面があります。最近は政治的な発言や人生論をSNSで見かける機会も増えました。
つまり、愛されてはいたけど、最近特に「常に正しい」「疑問の余地がない」という神聖視に傾いている。時間とともに人気は変わるのに、タモリだけは変わらない完璧な存在という扱いが強まっているのかもしれません。
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?これって『尊敬できる人を作った途端に、その人を批判する自由を失う』っていう人間社会のよくあるパターンなの?
タモリ礼賛の現象を見ると、それはどちらかといえば、「尊敬できる人を失ってはいけない」という集団的な恐怖心が働いているように見えます。
一人の人物が象徴的になると、その人への批判が「自分たちの価値観そのもの」への攻撃に感じられてしまう。だからネット上で激怒が起きる。けれど本当は、尊敬と批判は両立するはずなんですよね。むしろ、完全に批判を許さない状態は、その人を人間から「像」に変えてしまってる。
面白い点は、タモリ自身が長年のキャリアの中で「常に異なる視点を尊重する姿勢」を見せてきたはずだということ。多様な考えを受け入れ、一つの「正解」を押し付けない人だからこそ支持されてたのに、その人を守るために「異論を排除する全会一致」が生じてしまってる。本来なら、タモリはそれを最も嫌うような気もします。
人間社会はどうしても、信頼できる人物を必要とする。でも一度それが過度になると、その人を保護する防壁が勝手に建たれてしまう。日本社会で特に強いかもしれませんが、多くの文化で起きている現象なのかもしれません。
これって『尊敬できる人を作った途端に、その人を批判する自由を失う』っていう人間社会のよくあるパターンなの?
タモリ礼賛の現象を見ると、それはどちらかといえば、「尊敬できる人を失ってはいけない」という集団的な恐怖心が働いているように見えます。 一人の人物が象徴的になると、その人への批判が「自分たちの価値観そのもの」への攻撃に感じられてしまう。だからネット上で激怒が起きる。けれど本当は、尊敬と批判は両立するはずなんですよね。むしろ、完全に批判を許さない状態は、その人を人間から「像」に変えてしまってる。 面白い点は、タモリ自身が長年のキャリアの中で「常に異なる視点を尊重する姿勢」を見せてきたはずだということ。多様な考えを受け入れ、一つの「正解」を押し付けない人だからこそ支持されてたのに、その人を守るために「異論を排除する全会一致」が生じてしまってる。本来なら、タモリはそれを最も嫌うような気もします。 人間社会はどうしても、信頼できる人物を必要とする。でも一度それが過度になると、その人を保護する防壁が勝手に建たれてしまう。日本社会で特に強いかもしれませんが、多くの文化で起きている現象なのかもしれません。
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タモリ礼賛の現象を見ると、それはどちらかといえば、「尊敬できる人を失ってはいけない」という集団的な恐怖心が働いているように見えます。
一人の人物が象徴的になると、その人への批判が「自分たちの価値観そのもの」への攻撃に感じられてしまう。だからネット上で激怒が起きる。けれど本当は、尊敬と批判は両立するはずなんですよね。むしろ、完全に批判を許さない状態は、その人を人間から「像」に変えてしまってる。
面白い点は、タモリ自身が長年のキャリアの中で「常に異なる視点を尊重する姿勢」を見せてきたはずだということ。多様な考えを受け入れ、一つの「正解」を押し付けない人だからこそ支持されてたのに、その人を守るために「異論を排除する全会一致」が生じてしまってる。本来なら、タモリはそれを最も嫌うような気もします。
人間社会はどうしても、信頼できる人物を必要とする。でも一度それが過度になると、その人を保護する防壁が勝手に建たれてしまう。日本社会で特に強いかもしれませんが、多くの文化で起きている現象なのかもしれません。
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?タモリが面白いと思ってる人からすると、この記事は『正当な批判の自由を認めろ』って見えるけど、逆にヒカルを全否定する側は『尊敬される人への敬意』を守ってるつもりじゃないの?
その通りですね。この対立は、本当は同じ構造の繰り返しなんだと思うんです。
「タモリは偉大だから批判を許さない」という側も、「ヒカルは底が浅いから批判する側が正しい」という側も、やってることは全く同じ。自分たちが「正しい」と信じる基準を絶対視して、それに従わない相手をまるごと否定してしまう。敬意を払う対象が違うだけで、論理構造は一致してるんですよ。
記事が指摘しているのは、その論理そのものの危うさなんだと思う。「異論を排除する全会一致」が問題だと言っている。つまり、タモリへの敬意を守ることと、批判の自由を認めることは、本来なら両立するはずなのに、片方しか認めない状況になってるということです。
逆に言うと、「タモリは確かに偉大だけど、それでもつまらないと感じる人がいてもいい」と思える強さが、民主的な社会には必要なのかもしれません。敬意と異論は、むしろセットで初めて成立する話なんではないでしょうか。
タモリが面白いと思ってる人からすると、この記事は『正当な批判の自由を認めろ』って見えるけど、逆にヒカルを全否定する側は『尊敬される人への敬意』を守ってるつもりじゃないの?
その通りですね。この対立は、本当は同じ構造の繰り返しなんだと思うんです。 「タモリは偉大だから批判を許さない」という側も、「ヒカルは底が浅いから批判する側が正しい」という側も、やってることは全く同じ。自分たちが「正しい」と信じる基準を絶対視して、それに従わない相手をまるごと否定してしまう。敬意を払う対象が違うだけで、論理構造は一致してるんですよ。 記事が指摘しているのは、その論理そのものの危うさなんだと思う。「異論を排除する全会一致」が問題だと言っている。つまり、タモリへの敬意を守ることと、批判の自由を認めることは、本来なら両立するはずなのに、片方しか認めない状況になってるということです。 逆に言うと、「タモリは確かに偉大だけど、それでもつまらないと感じる人がいてもいい」と思える強さが、民主的な社会には必要なのかもしれません。敬意と異論は、むしろセットで初めて成立する話なんではないでしょうか。
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その通りですね。この対立は、本当は同じ構造の繰り返しなんだと思うんです。
「タモリは偉大だから批判を許さない」という側も、「ヒカルは底が浅いから批判する側が正しい」という側も、やってることは全く同じ。自分たちが「正しい」と信じる基準を絶対視して、それに従わない相手をまるごと否定してしまう。敬意を払う対象が違うだけで、論理構造は一致してるんですよ。
記事が指摘しているのは、その論理そのものの危うさなんだと思う。「異論を排除する全会一致」が問題だと言っている。つまり、タモリへの敬意を守ることと、批判の自由を認めることは、本来なら両立するはずなのに、片方しか認めない状況になってるということです。
逆に言うと、「タモリは確かに偉大だけど、それでもつまらないと感じる人がいてもいい」と思える強さが、民主的な社会には必要なのかもしれません。敬意と異論は、むしろセットで初めて成立する話なんではないでしょうか。
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