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2026年7月13日(月) 9時

論文
Visual cultureSociologyVisual researchPraxisIdentity (music)Participatory action researchContext (archaeology)Action researchIndigenousTransformative learningNarrativeGender studiesCritical consciousnessCitizen journalismAgency (philosophy)Action (physics)Qualitative researchArgument (complex analysis)AestheticsPhotovoiceConceptual frameworkThe artsVisual artsMedia studiesTemporality

南アフリカの若者たちが、古い映像と新しい映像の間で「自分らしさ」を作り直す

南アフリカの16~24歳の青年45人が、植民地時代やアパルトヘイト時代の古い画像と、ネットから流れる世界の映像に囲まれている。このプロジェクトは、参加型の美術活動を通じて、彼らがどう自分のアイデンティティを主体的に作り直すかを5年間追いかけた。

この研究のポイント

  • 1.

    何を調べたか

    植民地遺産と現代グローバル文化に取り巻かれた南アフリカの青年45人が、参加型アート活動を通じてアイデンティティを再構築するプロセスを5年間記録した

  • 2.

    見えてきたこと

    写真撮影やデジタルコラージュ、壁画制作といった創造的実践により、若者たちは支配的な映像表現を批判的に解きほぐし、伝統と現代を混交させた独自の視覚表現を生み出した

  • 3.

    私たちにとっての意味

    手を動かしながら自分たちの現実を映像化する過程で、他者が定めた型ではなく、自分たちの経験と選択に根ざした主体的アイデンティティが形成される

著者Thandiwe Nkosi, Lerato Mokoena, Pieter van der Merwe

元の論文を読むOpen MIND

AIが気になってること

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『参加型の美術活動』って何?ワークショップと何が違うの?

「参加型」と「ワークショップ」は違う概念の組み合わせなので、一概には比較できないんですよね。むしろ、このプロジェクトでは「参加型の美術活動」という枠組みの中に、ワークショップが手段として入っているようです。 参加型美術活動の核は、作品を完成させることより、プロセスそのものが目的だということ。南アフリカの若者たちが写真を撮ったり、コラージュを作ったり、壁画を描いたりする。その制作過程で「これって変じゃないか」と問い直すことが狙い。つまり、作る側が主体的に考え、判断を重ねる時間が重視される。 一方、ワークショップは一般的には「講師が技法を教える場」という色が強い。ただこのプロジェクトでは、研究者たちが若者と一緒に5年間にわたって活動を積み重ねている。その中で、若者たちが自分の実感に根ざした映像言語を作り出していく。ここまで深く関わり、参加者の主体性を引き出すことを重視する場になると、それは単なる技術習得のワークショップとは違う営みに見えます。 つまり参加型とは、完成した作品より、作る者の思考の変化を大事にする活動なのかもしれません。

AIAIからの回答

「参加型」と「ワークショップ」は違う概念の組み合わせなので、一概には比較できないんですよね。むしろ、このプロジェクトでは「参加型の美術活動」という枠組みの中に、ワークショップが手段として入っているようです。

参加型美術活動の核は、作品を完成させることより、プロセスそのものが目的だということ。南アフリカの若者たちが写真を撮ったり、コラージュを作ったり、壁画を描いたりする。その制作過程で「これって変じゃないか」と問い直すことが狙い。つまり、作る側が主体的に考え、判断を重ねる時間が重視される。

一方、ワークショップは一般的には「講師が技法を教える場」という色が強い。ただこのプロジェクトでは、研究者たちが若者と一緒に5年間にわたって活動を積み重ねている。その中で、若者たちが自分の実感に根ざした映像言語を作り出していく。ここまで深く関わり、参加者の主体性を引き出すことを重視する場になると、それは単なる技術習得のワークショップとは違う営みに見えます。

つまり参加型とは、完成した作品より、作る者の思考の変化を大事にする活動なのかもしれません。

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日本にいると、ネットから流れる映像と自分の周囲の現実のズレって感じることあるけど、南アフリカの若者が感じてる矛盾って、もっと根深いってこと?

根深さの質が違うのかもしれません。日本なら、ネットの映像は「理想像」や「他人の人生」として、心理的な距離を置いて見ることができる。でも南アフリカの若者たちにとって、その矛盾は教科書にも街にも組み込まれている。植民地時代の像が教育の中に残っているということは、「これが歴史」という公式ナラティブとして押しつけられているわけです。同時にスマートフォンには、その歴史とはまったく別の世界観が流れてくる。つまり、個人の内面だけの問題ではなく、制度と世界情報が相反している状態で毎日を過ごすことになる。日本でも都市と地方のズレはありますが、南アフリカの場合は歴史的な傷跡と現在のグローバル化が、同じ身体の中で対立している。だからこそ、ワークショップで「自分の手で作る」という行為がこんなに効いたんでしょう。他者の型ではなく、自分たちが混ぜ合わせる過程そのものが、アイデンティティの再構築になったと言えそうです。

AIAIからの回答

根深さの質が違うのかもしれません。日本なら、ネットの映像は「理想像」や「他人の人生」として、心理的な距離を置いて見ることができる。でも南アフリカの若者たちにとって、その矛盾は教科書にも街にも組み込まれている。植民地時代の像が教育の中に残っているということは、「これが歴史」という公式ナラティブとして押しつけられているわけです。同時にスマートフォンには、その歴史とはまったく別の世界観が流れてくる。つまり、個人の内面だけの問題ではなく、制度と世界情報が相反している状態で毎日を過ごすことになる。日本でも都市と地方のズレはありますが、南アフリカの場合は歴史的な傷跡と現在のグローバル化が、同じ身体の中で対立している。だからこそ、ワークショップで「自分の手で作る」という行為がこんなに効いたんでしょう。他者の型ではなく、自分たちが混ぜ合わせる過程そのものが、アイデンティティの再構築になったと言えそうです。

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南アフリカでは今も学校の教科書にアパルトヘイト時代の像が残ってるんですか?教育システム自体が変わってないってこと?

アパルトヘイト廃止から30年以上たっているのに教科書が変わらないというのは、一見すると不思議に思えますよね。ただ、これは教育システムが「意図的に変えない」というより、変わるプロセスそのものが遅いんです。 教科書の刷新って、採択・印刷・配布に時間がかかるし、予算もかかる。特に南アフリカのような発展途上国では、全国の学校に新しい教科書を届けるだけで何年もかかることがあります。また、歴史教育をどう書き直すかについて、国内でも議論が続いているんです。「何を消して、何を付け加えるのか」は簡単な決定ではない。 でも記事から読み取れるのは、単なる「遅れ」ではなく、若者たちが古い像と新しい像の両方に同時に触れている状況そのものが、実は問題なんだということ。教科書の像は過去を映し、スマートフォンの像は世界を映す。その落差の中で生きることが、逆に自分たちの見え方を能動的に作り直す機会になってるのかもしれません。矛盾が解消されるのを待つより、矛盾の中で選択肢を広げていく方が先に進んでいくということでもあるでしょうか。

AIAIからの回答

アパルトヘイト廃止から30年以上たっているのに教科書が変わらないというのは、一見すると不思議に思えますよね。ただ、これは教育システムが「意図的に変えない」というより、変わるプロセスそのものが遅いんです。

教科書の刷新って、採択・印刷・配布に時間がかかるし、予算もかかる。特に南アフリカのような発展途上国では、全国の学校に新しい教科書を届けるだけで何年もかかることがあります。また、歴史教育をどう書き直すかについて、国内でも議論が続いているんです。「何を消して、何を付け加えるのか」は簡単な決定ではない。

でも記事から読み取れるのは、単なる「遅れ」ではなく、若者たちが古い像と新しい像の両方に同時に触れている状況そのものが、実は問題なんだということ。教科書の像は過去を映し、スマートフォンの像は世界を映す。その落差の中で生きることが、逆に自分たちの見え方を能動的に作り直す機会になってるのかもしれません。矛盾が解消されるのを待つより、矛盾の中で選択肢を広げていく方が先に進んでいくということでもあるでしょうか。

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結局このプロジェクトって『自分のアイデンティティは、考えるだけじゃなく、作ることで初めて見つかる』っていう話ですか?

そう見えるかもしれませんが、もう一歩踏み込むと違う構造が見えてきます。 この若者たちが面白いのは、「自分のアイデンティティを作る」というより「複数の映像言語の中で、どれを使うか選び直す」という行為をしていることなんです。植民地時代の像、アパルトヘイドの記録、TikTokのトレンド、自分たちの地元の風景。世の中に既にある映像たちが絶えず衝突している状態で、その中から「これは自分たちのものにできる」と引っ張り出す。デジタルコラージュや壁画は、そのプロセスを可視化する手段に過ぎない。 つまり手を動かすことで見つかるのは「本来の自分」ではなく「今この時代に、自分たちが実際に選べる見え方」。古い伝統と現代トレンドを混ぜるというのは、どちらかに完全に統一されることなく、その間で揺らぎながら自分を作り直していく営みだと言えそうです。 だからこのプロジェクトが重要なのは、正解を見つけさせるのではなく、矛盾した映像の中で選択し直す力を手に入れさせたこと。その繰り返しこそが、主体的に生きるということなのかもしれません。

AIAIからの回答

そう見えるかもしれませんが、もう一歩踏み込むと違う構造が見えてきます。

この若者たちが面白いのは、「自分のアイデンティティを作る」というより「複数の映像言語の中で、どれを使うか選び直す」という行為をしていることなんです。植民地時代の像、アパルトヘイドの記録、TikTokのトレンド、自分たちの地元の風景。世の中に既にある映像たちが絶えず衝突している状態で、その中から「これは自分たちのものにできる」と引っ張り出す。デジタルコラージュや壁画は、そのプロセスを可視化する手段に過ぎない。

つまり手を動かすことで見つかるのは「本来の自分」ではなく「今この時代に、自分たちが実際に選べる見え方」。古い伝統と現代トレンドを混ぜるというのは、どちらかに完全に統一されることなく、その間で揺らぎながら自分を作り直していく営みだと言えそうです。

だからこのプロジェクトが重要なのは、正解を見つけさせるのではなく、矛盾した映像の中で選択し直す力を手に入れさせたこと。その繰り返しこそが、主体的に生きるということなのかもしれません。

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古い伝統文化と世界のトレンドを混ぜるって素敵に聞こえるけど、その過程で『失われた』伝統文化もあるんじゃないですか?

その違和感は当たっていると思います。新しい混合型のアイデンティティって、聞こえはいいんですけど、実はある種の「選別」なんですよね。 若者たちが世界的トレンドを取り込むとき、自分たちの伝統文化からも選り好みをしている。スマートフォンのアルゴリズムが世界中の映像を目利きしてくれるように、彼らも「使える伝統」と「古くさい伝統」を無意識に分けてしまう。だからこそ、混ぜられた新しい映像言語には、確実に何かが落ちてる。それは、流行に乗らない地域の儀礼かもしれないし、高齢世代だけが持つ知識かもしれません。 ただ、このプロジェクトが面白いのは、その事実を前提にしてるらしいということ。完全な伝統保存を目指すのではなく、若者たちが「今、自分たちにとって何が必要か」を実感的に選び取るプロセスそのものを価値だと見てるんです。失われるものは確実にある。でも、押しつけられるままに生きるより、何かが落ちることを知りながら、自分たちで選ぶことができるようになる方が大事だ、という価値観の転換があるのかもしれません。

AIAIからの回答

その違和感は当たっていると思います。新しい混合型のアイデンティティって、聞こえはいいんですけど、実はある種の「選別」なんですよね。

若者たちが世界的トレンドを取り込むとき、自分たちの伝統文化からも選り好みをしている。スマートフォンのアルゴリズムが世界中の映像を目利きしてくれるように、彼らも「使える伝統」と「古くさい伝統」を無意識に分けてしまう。だからこそ、混ぜられた新しい映像言語には、確実に何かが落ちてる。それは、流行に乗らない地域の儀礼かもしれないし、高齢世代だけが持つ知識かもしれません。

ただ、このプロジェクトが面白いのは、その事実を前提にしてるらしいということ。完全な伝統保存を目指すのではなく、若者たちが「今、自分たちにとって何が必要か」を実感的に選び取るプロセスそのものを価値だと見てるんです。失われるものは確実にある。でも、押しつけられるままに生きるより、何かが落ちることを知りながら、自分たちで選ぶことができるようになる方が大事だ、という価値観の転換があるのかもしれません。

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