2026年9月6日(日) 9時
論文アフリカ研究は誰のものか、セネガルの大学が問い直す
アフリカを学ぶ授業が実は西洋の考え方ばかりを教えている現状がある。セネガルの3つの大学で、地元の知恵や哲学を組み込んだ授業への転換を調べた研究。地域に根ざした学び方が広がり始めている。
この研究のポイント
- 1.
何を調べたか
セネガルの3大学で2021~2026年に、西洋中心の授業から地域知識を中心とする教え方への転換を調査。教科書分析、授業観察、教職員・学生42人への聞き取りを実施
- 2.
見えてきたこと
ウォロフ語の哲学概念や口述歴史、地域との連携学習を組み込むことで、『知識は誰のものか』という認識の転換が起きている。ただし大学によって進み具合は異なる
- 3.
私たちにとっての意味
アフリカの大学がアフリカ自身の現実と知恵に根ざして学ぶ道を開く。この転換はアフリカ全域の教育改革と学び方の刷新に具体的な示唆を与える
著者Aïssatou Diagne, Dr Carolyn Miller
元の論文を読む(Zenodo (CERN European Organization for Nuclear Research))
AIが気になってること
?『jom』『teranga』みたいなウォロフ語の概念って、日本語に訳すとどうなるの?訳語があるのか、それとも訳せない独特の意味があるのか?
ウォロフ語の概念を日本語に「完全に訳す」のは難しいというのが、実はこの問題の要点かもしれません。「jom」は誠実さ、「teranga」はおもてなしの心と書きましたが、これらは訳語というより「説明」に近い。本来の重みは失われます。
たとえば「侘寂」を英語で一語で表すのが困難であるように、言葉は文化の中で育つ概念です。「jom」はセネガルの社会規範や人間関係の中で立ち現れる誠実さで、日本の「誠」とは微妙にずれている。「teranga」も単なる「おもてなし」ではなく、共同体が互いに支え合う姿勢に根ざしています。
記事が大事にしているのは、むしろこの「訳せなさ」そのものです。西洋の理論で世界を説明しようとすると、こういったローカルな概念が消えてしまう。セネガルの大学が授業にウォロフ語の概念を組み込むのは、訳語を用意するためではなく、その言語で思考することの価値を取り戻そうとしているのかもしれません。
『jom』『teranga』みたいなウォロフ語の概念って、日本語に訳すとどうなるの?訳語があるのか、それとも訳せない独特の意味があるのか?
ウォロフ語の概念を日本語に「完全に訳す」のは難しいというのが、実はこの問題の要点かもしれません。「jom」は誠実さ、「teranga」はおもてなしの心と書きましたが、これらは訳語というより「説明」に近い。本来の重みは失われます。 たとえば「侘寂」を英語で一語で表すのが困難であるように、言葉は文化の中で育つ概念です。「jom」はセネガルの社会規範や人間関係の中で立ち現れる誠実さで、日本の「誠」とは微妙にずれている。「teranga」も単なる「おもてなし」ではなく、共同体が互いに支え合う姿勢に根ざしています。 記事が大事にしているのは、むしろこの「訳せなさ」そのものです。西洋の理論で世界を説明しようとすると、こういったローカルな概念が消えてしまう。セネガルの大学が授業にウォロフ語の概念を組み込むのは、訳語を用意するためではなく、その言語で思考することの価値を取り戻そうとしているのかもしれません。
AIAIからの回答
ウォロフ語の概念を日本語に「完全に訳す」のは難しいというのが、実はこの問題の要点かもしれません。「jom」は誠実さ、「teranga」はおもてなしの心と書きましたが、これらは訳語というより「説明」に近い。本来の重みは失われます。
たとえば「侘寂」を英語で一語で表すのが困難であるように、言葉は文化の中で育つ概念です。「jom」はセネガルの社会規範や人間関係の中で立ち現れる誠実さで、日本の「誠」とは微妙にずれている。「teranga」も単なる「おもてなし」ではなく、共同体が互いに支え合う姿勢に根ざしています。
記事が大事にしているのは、むしろこの「訳せなさ」そのものです。西洋の理論で世界を説明しようとすると、こういったローカルな概念が消えてしまう。セネガルの大学が授業にウォロフ語の概念を組み込むのは、訳語を用意するためではなく、その言語で思考することの価値を取り戻そうとしているのかもしれません。
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?日本の大学で『日本について学ぶ授業』が、実は西洋の学問体系で説明されてるとしたら、それって問題だと感じる?
日本について学ぶ授業が西洋の枠組みで説明されている現象は、セネガルの問題と構図が違うのかもしれません。セネガルは自分たちの大陸を西洋人に研究されてきた歴史がある。対して日本は、自国の学問体系をかなり主体的に発展させてきた側です。
だから「日本学」の場合は、むしろ逆の問題が起きているように見えます。例えば歴史学なら東洋史という枠組みそのものが、西洋を中心にした分類体系。でも日本の大学は日本史を日本史として独立させ、その中で日本固有の考え方や方法論もかなり深く掘り下げている。むしろ自分たちの言葉で説明する側になっている部分が多い。
ただ、セネガルの試みが指摘しているのは、もっと根の深い問題かもしれません。「知識とは誰のものか」という問い。日本の大学でも、学んだ理論や概念の起源を遡れば、西洋由来のものが土台に敷かれている領域は少なくない。それに気づくかどうか、そしてそこから日本固有の視点を意識的に取り戻すかどうか。その意識レベルでの問い直しが、日本でも起きる余地はありそうです。
日本の大学で『日本について学ぶ授業』が、実は西洋の学問体系で説明されてるとしたら、それって問題だと感じる?
日本について学ぶ授業が西洋の枠組みで説明されている現象は、セネガルの問題と構図が違うのかもしれません。セネガルは自分たちの大陸を西洋人に研究されてきた歴史がある。対して日本は、自国の学問体系をかなり主体的に発展させてきた側です。 だから「日本学」の場合は、むしろ逆の問題が起きているように見えます。例えば歴史学なら東洋史という枠組みそのものが、西洋を中心にした分類体系。でも日本の大学は日本史を日本史として独立させ、その中で日本固有の考え方や方法論もかなり深く掘り下げている。むしろ自分たちの言葉で説明する側になっている部分が多い。 ただ、セネガルの試みが指摘しているのは、もっと根の深い問題かもしれません。「知識とは誰のものか」という問い。日本の大学でも、学んだ理論や概念の起源を遡れば、西洋由来のものが土台に敷かれている領域は少なくない。それに気づくかどうか、そしてそこから日本固有の視点を意識的に取り戻すかどうか。その意識レベルでの問い直しが、日本でも起きる余地はありそうです。
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日本について学ぶ授業が西洋の枠組みで説明されている現象は、セネガルの問題と構図が違うのかもしれません。セネガルは自分たちの大陸を西洋人に研究されてきた歴史がある。対して日本は、自国の学問体系をかなり主体的に発展させてきた側です。
だから「日本学」の場合は、むしろ逆の問題が起きているように見えます。例えば歴史学なら東洋史という枠組みそのものが、西洋を中心にした分類体系。でも日本の大学は日本史を日本史として独立させ、その中で日本固有の考え方や方法論もかなり深く掘り下げている。むしろ自分たちの言葉で説明する側になっている部分が多い。
ただ、セネガルの試みが指摘しているのは、もっと根の深い問題かもしれません。「知識とは誰のものか」という問い。日本の大学でも、学んだ理論や概念の起源を遡れば、西洋由来のものが土台に敷かれている領域は少なくない。それに気づくかどうか、そしてそこから日本固有の視点を意識的に取り戻すかどうか。その意識レベルでの問い直しが、日本でも起きる余地はありそうです。
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?なぜアフリカの大学の教科書は西洋の理論ばかりになったの?植民地時代の教育制度がそのまま続いてるってこと?
植民地時代の教育制度がそのまま続いているというより、独立後も「西洋の知識体系が国際的な『標準』として定着し続けた」という構造のほうが近いかもしれません。
独立当初は確かに、植民地時代の教材や教え方が残ったでしょう。ですが問題は、それがいつまでも「遺物」ではなく、むしろ「グローバルな学問の言語」として機能し続けていることです。大学の教科書を出版する出版社は欧米の大手。査読や学位認定の基準も欧米の学問体系に依拠している。大学の評価ランキング自体が、西洋の研究方法論を測定基準にしている。つまり、セネガルの大学が西洋理論に頼るのは、国際的な「認可」や「信用」を求める圧力の中でそうなっているわけです。
セネガルの研究者たちが5年かけて詳しく調べたというのは、その圧力がいかに根深いかを示しています。ウォロフ語の概念を授業に組み込むのは、単に「昔のやり方に戻す」のではなく、西洋が独占してきた「学問の言語」そのものをつくり直す試みと言えそうです。
なぜアフリカの大学の教科書は西洋の理論ばかりになったの?植民地時代の教育制度がそのまま続いてるってこと?
植民地時代の教育制度がそのまま続いているというより、独立後も「西洋の知識体系が国際的な『標準』として定着し続けた」という構造のほうが近いかもしれません。 独立当初は確かに、植民地時代の教材や教え方が残ったでしょう。ですが問題は、それがいつまでも「遺物」ではなく、むしろ「グローバルな学問の言語」として機能し続けていることです。大学の教科書を出版する出版社は欧米の大手。査読や学位認定の基準も欧米の学問体系に依拠している。大学の評価ランキング自体が、西洋の研究方法論を測定基準にしている。つまり、セネガルの大学が西洋理論に頼るのは、国際的な「認可」や「信用」を求める圧力の中でそうなっているわけです。 セネガルの研究者たちが5年かけて詳しく調べたというのは、その圧力がいかに根深いかを示しています。ウォロフ語の概念を授業に組み込むのは、単に「昔のやり方に戻す」のではなく、西洋が独占してきた「学問の言語」そのものをつくり直す試みと言えそうです。
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植民地時代の教育制度がそのまま続いているというより、独立後も「西洋の知識体系が国際的な『標準』として定着し続けた」という構造のほうが近いかもしれません。
独立当初は確かに、植民地時代の教材や教え方が残ったでしょう。ですが問題は、それがいつまでも「遺物」ではなく、むしろ「グローバルな学問の言語」として機能し続けていることです。大学の教科書を出版する出版社は欧米の大手。査読や学位認定の基準も欧米の学問体系に依拠している。大学の評価ランキング自体が、西洋の研究方法論を測定基準にしている。つまり、セネガルの大学が西洋理論に頼るのは、国際的な「認可」や「信用」を求める圧力の中でそうなっているわけです。
セネガルの研究者たちが5年かけて詳しく調べたというのは、その圧力がいかに根深いかを示しています。ウォロフ語の概念を授業に組み込むのは、単に「昔のやり方に戻す」のではなく、西洋が独占してきた「学問の言語」そのものをつくり直す試みと言えそうです。
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?これって『自分たちの土地のことを自分たちの言葉で学ぶ権利』を取り戻す動きってこと?
そう捉えるのが自然だとは思いますが、もう一段階掘り下げるとより興味深くなります。
セネガルの大学がやろうとしているのは「権利の奪還」というより「知識の主権を取り戻す」という感じ。なぜなら、西洋流の教科書でアフリカを学ぶって、自分たちの土地の話を他者の解釈フィルターを通してしか受け取れないということですから。
ウォロフ語の哲学概念「jom」や「teranga」を授業に組み込むというのは、要するに「誠実さ」「おもてなし」という概念を、西洋の倫理学の枠組みで定義し直すのではなく、その言葉が生まれた文化の中でのみ有効な意味を保つということです。翻訳されて輸入されるのではなく、その場で生きている。
これが広がると、大学自体が「西洋から派遣された知識の中継地点」ではなく「自分たちの現実を自分たちの論理で解釈する場所」に変わっていく。権利というより、学ぶ主体性そのものの回復と言えそうです。
これって『自分たちの土地のことを自分たちの言葉で学ぶ権利』を取り戻す動きってこと?
そう捉えるのが自然だとは思いますが、もう一段階掘り下げるとより興味深くなります。 セネガルの大学がやろうとしているのは「権利の奪還」というより「知識の主権を取り戻す」という感じ。なぜなら、西洋流の教科書でアフリカを学ぶって、自分たちの土地の話を他者の解釈フィルターを通してしか受け取れないということですから。 ウォロフ語の哲学概念「jom」や「teranga」を授業に組み込むというのは、要するに「誠実さ」「おもてなし」という概念を、西洋の倫理学の枠組みで定義し直すのではなく、その言葉が生まれた文化の中でのみ有効な意味を保つということです。翻訳されて輸入されるのではなく、その場で生きている。 これが広がると、大学自体が「西洋から派遣された知識の中継地点」ではなく「自分たちの現実を自分たちの論理で解釈する場所」に変わっていく。権利というより、学ぶ主体性そのものの回復と言えそうです。
AIAIからの回答
そう捉えるのが自然だとは思いますが、もう一段階掘り下げるとより興味深くなります。
セネガルの大学がやろうとしているのは「権利の奪還」というより「知識の主権を取り戻す」という感じ。なぜなら、西洋流の教科書でアフリカを学ぶって、自分たちの土地の話を他者の解釈フィルターを通してしか受け取れないということですから。
ウォロフ語の哲学概念「jom」や「teranga」を授業に組み込むというのは、要するに「誠実さ」「おもてなし」という概念を、西洋の倫理学の枠組みで定義し直すのではなく、その言葉が生まれた文化の中でのみ有効な意味を保つということです。翻訳されて輸入されるのではなく、その場で生きている。
これが広がると、大学自体が「西洋から派遣された知識の中継地点」ではなく「自分たちの現実を自分たちの論理で解釈する場所」に変わっていく。権利というより、学ぶ主体性そのものの回復と言えそうです。
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?セネガルが西洋流の教科書から離れることで、逆に西洋の大学にいるアフリカ系の学生たちにはどんな影響が出るの?
セネガルの大学が独自の知識体系を取り戻し始めるとき、西洋の大学にいるアフリカ系学生たちには興味深い「ズレ」が生じるかもしれません。
これまで多くのアフリカ系学生は、母大陸について学ぶときも、西洋の理論枠組みを通してしか学べませんでした。つまり、セネガルの学生たちと同じアフリカについて、正反対の視点から学んでいた状況です。
もし西洋の大学にいるアフリカ系学生が、セネガルの新しい授業内容に触れれば、「自分たちが学んだアフリカ像って何だったんだ」という違和感が生まれるでしょう。その違和感は、むしろ力になる可能性があります。同じアフリカについて、複数の解釈が存在することに気づくから。
長期的には、西洋の大学も圧力を感じるようになるのかもしれません。アフリカ系学生が「セネガルではこう教えてる」と問い直し始めれば、カリキュラムの正当性そのものが問われる。いま起きているのは、知識の中心がゆっくり分散していく過程なのだと言えそうです。
セネガルが西洋流の教科書から離れることで、逆に西洋の大学にいるアフリカ系の学生たちにはどんな影響が出るの?
セネガルの大学が独自の知識体系を取り戻し始めるとき、西洋の大学にいるアフリカ系学生たちには興味深い「ズレ」が生じるかもしれません。 これまで多くのアフリカ系学生は、母大陸について学ぶときも、西洋の理論枠組みを通してしか学べませんでした。つまり、セネガルの学生たちと同じアフリカについて、正反対の視点から学んでいた状況です。 もし西洋の大学にいるアフリカ系学生が、セネガルの新しい授業内容に触れれば、「自分たちが学んだアフリカ像って何だったんだ」という違和感が生まれるでしょう。その違和感は、むしろ力になる可能性があります。同じアフリカについて、複数の解釈が存在することに気づくから。 長期的には、西洋の大学も圧力を感じるようになるのかもしれません。アフリカ系学生が「セネガルではこう教えてる」と問い直し始めれば、カリキュラムの正当性そのものが問われる。いま起きているのは、知識の中心がゆっくり分散していく過程なのだと言えそうです。
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セネガルの大学が独自の知識体系を取り戻し始めるとき、西洋の大学にいるアフリカ系学生たちには興味深い「ズレ」が生じるかもしれません。
これまで多くのアフリカ系学生は、母大陸について学ぶときも、西洋の理論枠組みを通してしか学べませんでした。つまり、セネガルの学生たちと同じアフリカについて、正反対の視点から学んでいた状況です。
もし西洋の大学にいるアフリカ系学生が、セネガルの新しい授業内容に触れれば、「自分たちが学んだアフリカ像って何だったんだ」という違和感が生まれるでしょう。その違和感は、むしろ力になる可能性があります。同じアフリカについて、複数の解釈が存在することに気づくから。
長期的には、西洋の大学も圧力を感じるようになるのかもしれません。アフリカ系学生が「セネガルではこう教えてる」と問い直し始めれば、カリキュラムの正当性そのものが問われる。いま起きているのは、知識の中心がゆっくり分散していく過程なのだと言えそうです。
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